「自分中心心理学」の解釈

ふきげんよう。

「自分の心にある『焦げ付きみたいなこだわり』がなんなのか?」を知りたくて、最近はいろんな本を読むようにしているの。

内面的な話なので、脳科学とか心理学とかの本ね。

著者によっては、あまり論理的でない「ふわん」とした内容だったりするので、相性の悪い著者は避けてる。

あたしは石原加受子さんの「自分中心心理学」が、しっくりくるから好きなのね。

言葉だけ聞くと「自己中心的」に似ているけれど、それとは異なるの。

「自分中心」と「他者中心」について、あたしの解釈

「自分中心」とは、「自分がどう感じているか」を大切にする生き方。

それに対し、「みんながそうしているから、自分もそうしなければ」のような「思考」が先立つ状態は「他者中心」になるの。

常に、自分の感じ方を尊重して行動できれば、自己肯定感も高まるのね。

例えばさ、行きたくない飲み会。

「みんな行くから参加しとかないと…でも、職場の飲み会って愚痴ばっかりで楽しくないし、そのうえ会費も掛かるし、なんか憂鬱」

↑この状態で、自分が何を感じているかは「行きたくない」だよね。

でも、「みんなが行くから」という義務感で嫌々だけど参加する感じ、
これは自分の感情を軸に考えていない「他者中心」の思考。

もし、この状態を「自分中心」に行動するのなら…

「行きたくない場所へ行って、時間やお金を無駄にするなんて意味ない。不参加でいいや」と、他人を気にしない選択をする。

この選択だけでも、「みんながそうしているから…」という基準から解放されて、憂鬱のモヤモヤも晴れる。

「不参加だと、周りの人がどう思うだろう?」って、他者中心の思考に陥りそうになっても、心がスッキリしたと感じたなら、

「自分は『自分が心地よい選択』をしている」ということ。

この「モヤモヤせず、心が晴れやか」な状態で生きることが、あたしは「自分中心」と解釈したの。

「他者中心」の弊害

「〇〇しなければ」って思考を読み解いていくと、大体が「他人の目」を気にしていて、不本意なことが多いと思うのよ。

そして、あたしが今まで会ってきた「〇〇しなければ」思考の人々、大体が他人にも強制してくるの。

ほら「理不尽な伝統」ってあるじゃない?

「自分たちの時代では、理不尽と思っても従わなければ、上司や先輩(姑なんかも)に認めてもらえなかった。」
「私もやったんだから、あなたもやって当たり前」

これなんて「他者中心」の最たるものだと思うの。

自分中心に行動できていたなら、理不尽な要求に従わなかったはず。

理不尽な要求をしてくる相手になんて、べつに認めてもらわなくてもいいじゃないの。

でも、「みんなもやってきたから」っていう謎の論理に、不本意ながらも従ってしまった。

そして、「自分も従ったのだから、あなたも従うべき」と他人にも理不尽を要求する。

この「あなたも従うべき」も他者中心の思考。

だって、他者が自分と同じ目に遭わなければ気が済まないのでしょう?

この思考こそがもう「他者に捉われている状態」なのよ。

もし、軌道修正するのなら、「本当は理不尽な要求に従いたくなかった」という自分の感じ方を尊重して、他者には干渉しないことよ。

「私はこの理不尽な伝統を『負の連鎖』と感じていた。ならば、この連鎖を私の代で断ち切ろう」

正しいと感じていなかったことを、「伝統だから受け継ぐべき」なんて理由で後進に伝えるのなんて、関係のない相手を使って「恨み」を晴らしているだけ。

そして「恨み」こそ、他者に捉われた感情に他ならないのよ。

と、解釈がどんどん発展しちゃったけど、他者の期待に応えることや基準に従うことに捉われると、どんどん生きるのが窮屈になるわ。

「自己中心的」とは、他人の領域を犯すこと

さてさて、「自分中心」「自己中心的」は何が違うのか?

あたしも、ここの解釈はなかなか難しくてさ。

でもね、「自己中心的」ってなんか「利己的」な感じがしない?

石原加受子先生の本では「自分中心」は、

「自分を尊重しつつ、他者も尊重する」

言わば「相手の領域を犯さないこと」なのよ。

それに対し「自己中心的」はさ、

「自分の利益のために他人の領域に踏み込み、他者に要求や期待をしてくる」

イメージで言うなら、自分の家に勝手に上がってきた挙句、おもてなしを要求または期待してくる感じ。

自分と他者の境界をはっきりとさせる「自分中心」とは、だいぶ違うよね。

自分中心は「自分の感じ方を中心に行動する」

自己中心的は「自分の利益を中心に行動する」

自分中心は、必ずしも「利益」を生み出さないかも知れない(自分の基準での「満足」は得られる)

自己中心的は、自分が「利益」を得るためならば、他人の負担を厭わない

あたしなりに整理して、こんな感じに解釈したわ。

「他人と同じことができない=ダメな自分」ではない

「自分中心心理学」を通して、いかに自分が「他人の基準」に捉われていたかが分かったわ。

正社員でお勤めしている友達や、専門職に就いている友達と自分を比べて、「私は低収入で社会的地位も低い」

恋人が途切れないかわいい友達と自分を比べて、「私は美しくないから男性から選ばれない」

こんな理由から、自分を認めることが全然できなかった。

でも、他人と一緒じゃないからって「ダメな自分」ではないんだよね。

現に、他人を基準にして考えなきゃ、低収入も非モテもそんなに気にしてないのよ。

本当は「今より高収入になれたとしても、責任が重くなってプライベートを犠牲にする生活は嫌」だし、「恋人ができたとして、相手に合わせるために時間を調整するのは負担」なの。

自分中心に、自分の基準で考えればさ、全然「ダメ」じゃないの。

むしろ「心地よい」のに、「他者中心」に思考して窮屈になっていたのよね。

「自分中心心理学」を通して、あたしの心の焦げ付き、少し剥がれた気がするわ。

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